最近の法改正への疑問

卑劣な児童虐待事件を受けた児童虐待防止法などの法改正において、親の懲戒権として暴力的手段は認めない旨を追加する方向で作業が進んでいます。平成23年の民法改正で、親の懲戒権は子の利益のためになされる監護及び教育に必要な範囲内に限られることが明示されましたが、監護教育上「子の利益のため」であれば、なおも暴力の使用を認める余地を残しているというのが改正論者の言い分です。

ても、論点がずれていないでしょうか。虐待事件の原因は、社会ルールなどお構いなく、感情をコントロールできず、狂気をむき出しにする親にあります。この暴走ウィルスが如きおやから乳児や児童を守るシステムをいかに作るかが優先されるべきです。暴力禁止を明記すれば不当な親権行使に介入しやすいというのも本当かな、という気がします。精神的な暴力の定義は事実上不可能でしょう。児童相談所への弁護士や医師の設置は狂気の親への防波堤になるのでしょうか。疑問が尽きません。私は現場の実情に通じている訳ではありませんが、やはり、対応・受入能力の拡大、リスク判定の仕組み、関係者の専門性、警察機能・社会福祉機能との連携など、リスク判明時の対応システムの実効性の確保が優先課題ではないかと思います。

最近の法改正で気になるのは、パワハラが増えたから組織に防止義務を課すとか、外国人技能実習生の受け入れを拡大するから受け入れ機関や実習先の監督を強化すべきだとか、いかにも表面的な法改正の議論が横行している点です。そもそもどうしてそうした不祥事が起こるのか、関係当事者の意識や行動をどう変えるべきか、現実に即した議論もなく、形式的に事を進める姿勢に疑問を禁じ得ません。人間の欲望や弱さを是認したうえで、どうすれば予防・矯正できるか、もっと実のある会話ができないものでしょうか。ルールを作れば人間の行動は変わるという権威主義的な発想は現場には通用せず、逆に不正の隠ぺいを助長する副作用すらあります。現場に対しては問題の影響を粘り強く説明し、改善に向けた内発動機と違反者のペナルティを植え付けなければ修正行動につながりません。

映画監督の是枝裕和氏の「そして父になる」、「万引き家族」など一連の作品は、建前で臭いものに蓋をし、人間が生きる実態との乖離を広げている日本社会の病理を上手に表現されているので、とても洗練された問題提起だと思います。人が社会で生きるということは、欲望の相克や想定外のアクシデントなど、ドロドロした現実に忍耐や和解で立ち向かうことにほかなりません。是枝氏の作品が多くの支持を受けているのも、心ある人々がこうした表面的な社会の対応に疑問や不安を覚え、人間性の回復(ルネッサンス)の必要を感じているからでしょう。

規則や監督は、ある意味ではフィクションに過ぎません。大切なのは、不都合の背景にある複雑系をできるだけ解析すること、課題と優先順位を社会で共有すること、そのうえで個々のケースの最適解に様々な立場から知恵を出し合うことだと思います。形だけ決めて、綺麗な言葉で着飾って、それで終わりにしてしまう余裕は、これからの日本にありません。公平や正義が語れない社会ではじり貧が必至です。特に貧困児童・就学障害の解消は国家的優先課題です。高齢者にアンケートを取ると若い世代の役に立ちたい人が多いのに、政治家の選挙対策になると高齢弱者の保護が優先されるのも情けないですね。

烏合の衆が結集して政権与党を倒したり、自治体が都構想を導入したからといって、何かが解決するわけではありません。国民や市民が求めているのは、近未来の社会変化を織り込んだ高度な政策と立法の立案調整能力だと私は感じていますが、みなさんはどうでしょう。本当に必要なことがわかっていれば、やり方など走りながら考えても間に合うはずです。

方法論のディテールで対立構造を演出し、それをマスコミが大事件のように情報を垂れ流すいまの日本社会は、どこか病んでいるように思いませんか。パンとサーカスを垂れ流すだけのマスメディアや独自の問題提起ができないジャーナリズムには知性が感じられません。次世代への責任としても、問題の本質から逃げず、明確なビジョンをもった社会になって欲しいと願います。ここまで書くと嫌われるかな。まあ、いいか。