報道の自由を考える

私がこのブログで、日本は人権後進国なのですと説明すると、「ほんとにそうなの?」と聞かれます。11月16日、国連の人権理事会の対日人権審査で、日本の「報道の自由」が取り上げられ、218項目からなる勧告が採択されました。来年初頭の会合で人権理事会の最終勧告が採択される見込みです。

国際NGOの国境なき記者団(本部・パリ)の2017年の「報道の自由度ランキング」によれば、調査対象の180ヵ国・地域のうち、日本は前年と同じ72位ですが、イタリア(52位)に抜かれて主要国7ヵ国では最下位でした。2011年の11位から順位の低下が続いています。メディア敵視を隠そうとせず、特定秘密保護法の議論を拒み続ける現政権の姿勢がマイナス評価の理由となっています。

報道の自由、公開の自由な討論は、国民の知る権利を支える重要な社会のインフラです。「反対派が偏った攻撃的意見を展開するので話し合いにならない」、「どうせ多数決では勝つのだから時間の無駄だ」「議席数に比例した質問時間配分にすべきだ」ということでは、権力者の暴走を許し、国民の主権が有名無実になってしまいます。

一週間ほど前、政権寄りの某政党の代議士が、加計学園の獣医学部新設計画について、内閣府から総理のご意向だと聞いている旨を文部科学省が文書にしている旨を報じた朝日新聞の報道(5月17日付朝刊)を「捏造」と断言し、朝日新聞の11日付朝刊の社説に対し、ツイッターで「朝日新聞、死ね」と投稿していたことが問題となりました。

私は朝日新聞の報道傾向が好きではありませんが、それとこれは別の問題です。公職にある人間がメディアの独立性、討論の重要性を理解せず、一方的に圧力をかける態度に戦慄すら覚えます。

報道の自由は、権力の暴走を監視し、我々の社会の存立基盤を支える社会ルールです。言論・表現の自由、それを支える報道の自由といった社会のルールやシステム自体の侵害を放置することは社会の自殺行為です。

報道の自由と個人の利益が衝突する場合は、公正な手続の下で客観的に調整をはかる必要があります。これを不当に押しつぶそうという圧力がないか、国民がもっと関心をもって注視すべき社会問題だと考えます。